日記 性善説と性悪説
日記 受動
最近、創作に対するアイデアを思いつくことがほとんど無くなってしまった。妙に頭がシーンとしている。
そもそも考える姿勢をとっていないことが問題なのではないか。
確かに、私が何か自由な発想をしようとしているのはこの日記を書く時位だ。
工作が大好きで、それ以外の娯楽といえば3DSのうごくメモ帳やマリオパーティー位だった小学生の頃に比べると、
高校生になった今ではバイトや、意味もなくインターネットをしている時間で、自由な時間や創作活動をする時間というものは格段に減った。
そのせいで、脳の発想を司る部位が動かない状態のまま放置されてガチガチになってしまったのだと思う。
この事実に私はひどく落ち込んでいる。
将来もっと酷くなってしょうもない人間になってしまったらどうしよう、なんてぐるぐる考えては現実逃避にTwitterを開いてしまう。
悪い方向に思考がいくのは私の癖だ。今度からネガティブなことを考え出したと思ったら踊ることにしよう。
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日記 キーボード
ここ数日、日記を書くために長い時間スマホの画面に張り付いていたせいか、見事眼精疲労でフラフラになってしまっていた。
そこで対策として、手持ちのiPadをモニターとして使うことができるBluetooth接続のキーボードを購入した。
これがすごく良かった。眼精疲労は格段に良くなったし、何よりキーボードを押す感覚や音が楽しい。
押したキーに応じて文字がモニターの画面に表示されていく様はさながら視覚版のピアノで、心地良い。
ところで今日はオープンキャンパスに行く予定だったのだが、うっかり目覚ましをかけ忘れたせいで寝過ごしてしまった。
こんなこともできないのか、と自分に対しての失望で頭がいっぱいになってしまい、
ゾンビのようにインターネットをフラフラ徘徊していたらいつの間にか夜になっていた。
こんなので一日を終えるのはもったいない気がして、辛いチーズをいっぱい食べた。辛かった。
日記 勇気と自暴自棄
勇気と自暴自棄は同じに見えるな、とふと思った。
定義として“勇気“は恐怖や不安、羞恥を感じることを恐れずに向かっていく強い心意気のことであり、一方で“自暴自棄“は自分などどうでもいいと投げやりな行動をすることを指すそうです。
この二つの間にある違いを考えてみることにした。まず勇気は「不安だけど頑張ろう」などという、理性を働かせながら己を動かしているのに対し、自暴自棄は「どうにでもなれ!」と理性を働かせず、判断を放棄しているように見える。つまり、“思考“という理性にジャッジをさせているかどうかが勇気と自暴自棄の違いだと考えた。
「怖いけど頑張ろう」この発言を見て、これからする行動が“勇気のある行動“か“自暴自棄な行動“かを考えてみるとする。すると多くの人は、これからする行動はきっと“勇気のある行動だ”と考えるのではないだろうか。なぜなら「頑張ろう」という言葉は将来を見据えた、理性的なものであるからだ。行動に理性が伴うとそれは勇気になる。この思考は逆に、理性が伴っていない行動は自暴自棄である。己に危険があるかどうかそもそも考えることをせず、判断を放棄して行動をしているからだ。
これ日記じゃないな...
日記 美術館
昨日の夜、ふと思い立って美術館に行くことにした。駅から電車で数分、それからバスで数分を経由した自然の中にその美術館はある。
どうやら今日から、県が開催した美術コンクールのうちの平面・立体の部の受賞作品が展示されているようだった。
ふらりと回っていると、ある風景画が目に留まった。全ての色彩の境界がはっきりしていながらも、丸みを帯びた描き方をされている。アニメ塗りの延長のような描き方、と言えば伝わりやすいだろうか。とても好みだったので隅から隅までじっくりと脳に刻み込んだ。
近年、写真に撮ったような風景にアニメ調の人物が描かれている、特にサイバーパンクな雰囲気のある画風が流行しているように思う。
この画風は近年、インターネット上で度々散見されるし、この展示内でも数点見受けられた。この画風はもはや一つのジャンルとして確立されているように感じた。それは、CGと手描きの融合の代表格である、ジブリ作品とはまた違ったダークな雰囲気を持っており、日常と空想の世界が曖昧になるような不気味さがあるのが特徴として挙げられるように思う。
美術館、定期的に行きたいな、、、
ところで、今日は霧が濃かった。
濁った水槽で泳ぐ金魚の気持ちが分かった気がした。
日記 個性と職
就職したくない….私のこれはただの怠惰ではない。就職することで社会にありふれた人間になるのが怖いのである。没個性な人間になりたくない、という気持ちは17歳なら誰しもが少なからず持っているものだと私は思う。
個性的でありたい、という考えは向上心のひとつであると考える。"個性的である"ことは社会に自分をアピールするポイントであり、一種のステータスであるからだ。
私(現在17歳)はデザインや文芸の職に就きたいと考えている。昔から何かを作ることや、絵を描くことが好きだし、世の中で比較的クリエイティブな職だな、と思うからである。だが、“デザイン会社勤めの人“と捉えられるのはなんだか気に食わない。社会の歯車感が強いからだ。(デザイン会社の人は機械的に働いている訳ではないことも理解しているつもりだが。)いっそのことフリーランスで自分を売り出していくことも考えたが、それでやっていける程の自信は持ち合わせていない。
つまり私の問題は、「自分の能力一つで生きていく自信は持っていないけれど、個性的な仕事で食っていきたい」という気持ちを持っている所にある。
過去に1度、自分に自信を付けようということで、横浜の展示会にて自分の描いた創作イラストを展示する経験をしたことがあるのだが、いかんせん適当な仕上がりで出してしまったもので、大した自信はつかなかった。もっと本気で取り組むべきだった…
↓展示した当時の写真。
進路としてはとりあえず、京都芸術デザイン専門学校のビジュアルデザインコース、京都精華大学のグラフィックデザインコースをオープンキャンパスで見学することにした。
いつも文章の締めが甘い。締めって難しいですよね。
日記 声について
私は変に鼻にかかったようなような声をしている。おまけに舌にピアスを開けているので滑舌が悪い。私にとって自分の声は紛れも無くコンプレックスだ。
声がコンプレックスだと感じたのは小学5年生の頃、友人とラジオを録ってその録音を聴いた時からで、「なんだこのキモチワルイ声は!」と衝撃を受けたのを今でも覚えている。
私は趣味で弾き語りをしていて、それを友人に聞かせるために時々録音をするのだが、自分の歌声を聴くのが怖くて、一度も録音した音声を聴いたことがない。聞き慣れたら苦手意識は消えるのだろうか。
声について少し考えることにしてみた。
私がコンプレックスだと感じるのは“録音した自分の声“である。他人と話すさいに口から耳へと入っていく自分の声について、不満を感じることはあまりない。低い声だなと時々思うことはあるが、低い声はむしろ好みな方である。それに、他人と話す時は頭の中が話すだけで精一杯で自分の声なんて落ち着いて聞く暇がない。もしかしたら録音ではない自分の声も、落ち着いて聞いてみると気持ち悪く感じるのかもしれない。そうか、独り言をしてみたら分かるな。話してみるか。おっ、あんまり嫌じゃないぞ。でも舌がピアスに邪魔されてうまく動かせないのを感じる。
録音した声と自分の耳に入る声の違いを調べてみたら、どうやら自分で発声して耳に入る声は骨伝導と空気振動が合わさった音らしい。それに比べて、録音された声は空気振動のみを捉えているから違和感を感じるそう。しかも鼻にかかったような声は腹から声を出すことで改善することができるらしい。ビックリだ。もっと音楽の授業を真面目に受けるべきだったかもしれない。肩の荷が降りた気分だ。満足したので今日の日記はここで終わり。